2017-04

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思想「生きる目的とは」

生きる意味

 我々は果たして何のために生きているのだろうか。
この疑問に対する、(現実的で)割と妥当性がある答えは
「子孫を遺すため」
といったものではないだろうか。
ヒトが元をたどればサル←魚類←微生物←…と進化を遂げてきたと信じるならば、それらに共通する根源的な行為はまさにそれであると考えられるので、そう思うのも当然であろう。

 ともすれば、人類が掲げるべきスローガンは、「子孫を遺そう」であろうか?
いや、人口が増加しすぎれば地球の資源がすぐさま底をつき、逆に人類が滅びてしまう。
また、生物の例を見ても、働きアリや働きバチのように、子孫は遺さずに自分の血族のために生きる個体もいる。

 では、「人類を滅びさせぬべし」であろうか?だったらそもそも、人類が生き続けて、どんな意味があるというのだろうか?

 根拠は不充分かもしれないが、結局、生きることは無意味である。物質が物理法則に従って振舞うように、すべてはなすがままに動いているだけである。ただ言えることは、宇宙が「無から生まれた」(だろう)ということだけである。

 実際、「人類滅亡」をスローガンに人が人を殺し合って人類が滅亡することが「悪い」と証明することができるだろうか?そうなると「道徳」「倫理」や「感情論」などといった、根拠のない論理を持ち出さなければならないだろう。
 かといって、「生きる意味がないなら何をやってもいいだろう」という考えにはしっくりこないだろう。
生きる意味が不明であることを前提に、少なくとも僕が考える行動策は、「何が正しいか判らないならば、先達と同じようにしよう」ということである。祖先が子孫(や財産や慣習などなど)を遺して来たからこそ今の我々があるわけで、それに逆らってパーにしてしまっては元のもくあみである(もちろん、今すぐ死なないと手遅れである、という勧告を完全否定できもしないが)。やや消極的な言い方ではあるが、「周りに従っとけ」ということだ。
僕はどっちかというと無宗教な人間ではある(だって、幾多の宗教がある中、どれかひとつの教えのみが正しい、というのは不合理でしょう?)が、仏壇に向かって手を合わせたりなんだりする。というのは、親族がそうしてきたからである。

エゴイストたれ

 もうひとつ、我々は進化の上で、さまざまな高等的な機能を備えてきた。虫のような下等生物は、餌を得るために光に向かっていくとか、敵が近づいてきたら逃げるとか、単純な反射が中心である。それが高等になればなるほど、餌に釣られずに罠から逃げるとか、飼い主から褒美をもらうために少々の我慢をしたりとか、給料を得るために働いたりとか、つまりは現時点で多少の犠牲を払いながらも、長い目で見て多くの利益が得られるように進化しているのである。

 これを極限的に考えると、「限りなく先(最終的)に自分の利益が最大になるように行動すること」であり、これこそが今のところ僕の考える「すべきこと」(「持つべき信念」)である。果たして「利益」って何?というと、生きる目的が不明であるのがゆえに、それこそ人それぞれ、しかもひとつに限らない。"限りなく先"を死後と捉えるか死ぬ前と捉えるかはとりあえずどちらでもよいが、素朴には「後悔を残さず一生を終える」とかいうことである。
または、「今を楽しめればいい」といった考えを持つ人も、あとから振り返ってそれで良かったと思うことを見据えてのことであろうから、それもまた正当な考えである。

 なお、「"自分の"利益」というとエゴイスト(利己主義)と結びつくように思うかもしれないが、それは極論的にはまさにその通りであり、また一般的にいうエゴとは全く異なる。
いわゆる自己中心的な人間というのは、他人の利益よりも自分の利益を優先するがゆえに、大抵は周囲から問題視され、いつかは何らかの不利益を被るであろう。したがって一般的にいうエゴ、ジコチューなどはむしろ「今の自分中心的」というべきである。要するに、「単細胞」ということである。真の意味で「利己」を果たすには結局「利他」が不可欠である。

 一方、例えば世界の貧困をなくすために身を投じるような人は、あくまでもその活動によって世界を理想的な状態にしたいとか、人々に喜んでもらいたいとかいったビジョンがあるのだと思うが、それを達成することが名声や贅沢などにも勝る利益であろう(まさか自分の害になるようなボランティアを望んでするなんてことはあるまい)。

 そして、上で述べたような「人類が滅びないこと」なども同じように各個人の(最終的な)利益と考えるに自然であるが、世間を客観的に見れば、やはりこの信念こそが圧倒的なスタンダードなのであろう。世界平和はもとより環境保全や動物愛護といった活動はほぼ普遍的に受け入れられているが、それらの活動は人類のため以外の何物でもなかろう?(この類の話はできれば別の機会にじっくり語りたいが)

 ともあれ、少なくとも、自分にとっての最終的な利益を考えて行動することが各自において最低限の行動基準であり、そういう意味で大いにエゴイストたれということである。

論理を超越した目的

 生きる目的として「誰かを愛するため」などと答える人も少なからずいると思うが、論拠より何より、やはり感情から素直に湧き出る信念こそが最も強力なのかもしれない。
はたまた、強力かつ非常に厄介なのが「宗教」である。これは論理を超越しているからこそ人々に絶対的な信念を与えることができ、人類の進歩に大いに貢献してきたのであろうが、その一方で宗教を信仰するかしないかで、その指針に大きな溝が生じてしまっている。
すると、宗教について人類共通の理解(もしくは規約?)が得られない限り世界平和は達成できないのかもしれない。(少なくとも、他を認めないような宗教というのは勘弁してほしいものだ。)

いちおうまとめ

以上の考えをまとめてみると、
  • 生きる目的は実際のところ判らない。とはいえ、過去の人々に倣うのが無難である。
  • 自分なりの信念を持って生きるべきである。そういう意味で、エゴイストであることが重要であるといえる。
  • 生きる意味が不明であるため各自それぞれの信念をもつことになるが、異なる信念は競合する恐れもある。
といったところか。この先、人類が共通の信念を持つこともあるのだろうか。
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